2008年11月26日水曜日

論文を書く前に知ってほしい「言葉」の大切さ

「言葉」で「知性」のすべてが伝わるわけではない。そんなことは百も承知しています。
以前のエントリ「知性が失われてはじめて言語が「亡びる」」では敢えて「知性」とは何かを定義しないで話をしています。「丁寧な文体」が「知性」と同一だとは言っておりませんので、あしからず。それゆえ、リンク先での「知性」とは何かという議論に反論する理由はなくて、実際、そのとおりだと思います。

少なくとも、僕ら研究者は「知性」を育て「知性」を見出す仕事をしています。つまりは現場の人間です。言葉がつたなくても、対話的にその人の持っている可能性などの「知性」を見出すのが大学という場であり教師の仕事なら、「知性」を持っていることを自らが外に伝えるのが論文です。論文の場合、表現やプレゼンテーションなど、「知性」を伝える力も含めて「知性」と考えます。

もちろん、中身がからっぽでいいかげんなら、きれいな文章でいくら取り繕ってもだめです。

論文を書くということは、自分の知性を他に認めてもらう行為です。but, but, butと続く論文は決して読みやすいものとは言えません。しかも、言葉を疎かにして、他人(しかも学生なら、目上の教師)に馴れ馴れしく話しておきながら、「自分は賢い」と認めてもらおうとは、非常におこがましい態度と言わざるを得ません。査読する側としては、読みにくい文章・要点を得ない下手なプレゼンテーションから「知性」を見出すことを強いられるために、意味が伝わりさえすればいいという書き方は迷惑極まりなく、「論文」という媒体でやるべきことではないと強く思います。

研究の世界の査読システムは、人の善意で成り立っています。お金がもらえるわけではないし、年間に何十本と読むものなので、自分の研究時間が削がれていくばかりなものです。それなのに、肝心の論文を書く側に、言葉を洗練し、内容わかりやすく伝えるための努力、読んでもらう人への敬意がない。そんな論文ばかりが集まってくるようだと、査読する側も疲弊し「知性」を見出す努力が続けられなくなります。結果として、重要な学問への貢献が見い出せなくなる、学会・論文誌の質が下がる、と悪循環に陥いるのです。

論文の査読の評価項目には、「プレゼンテーションの良し悪し」というものがあります。評価が高い論文はきまってプレゼンテーションが良いもので、そのような評価を得た論文が全体の中でも常に上位を占めています。技術的に秀逸でも、プレゼンテーションが悪い論文を救出するには、査読者がshephered(指導者)の役を買って出て、論文をbrush upさせる仕事をしなくてはなりません。しかし、査読者は匿名が基本です。論文を世に出すのを手伝っても、お金も名声も得られないため、拾い上げてくれるかどうかは完全に査読者の善意に依存しています。ですから、論文からプレゼンテーションを練り直せるだけの「知性」を見出せないようなら、単に論文をrejectすることになるでしょう。

僕が本当に伝えたかったのは、書き手の方こそ、良い文章・洗練された表現を書くために頑張って欲しい、ということです。 特にそれが学問という、善意や熱意で成り立っている場所ならなおさらです。

この努力を怠った結果は、既に今の日本で見ることができます。頑張って書かれた論文でも、返ってくる査読結果が数行で適当に書かれたものであったりと、査読者側が最初からやる気をなくしている場合があるのです(これは日本に限らないですが…)。投稿する側も、いまや研究の世界の普遍語となった英語で書くことが大事なので、手軽に業績を増やすために、英語で書いたものを日本語に直して出してしまおう、と、日本語としての文章を練り直す努力を怠ります。当然、査読者はさらにやる気を失います。極端なことには、論文を日本語では書かないという方向にもつながっていきます。そうしているうちに、「知性」を伝えることも、また「知性」を見出す仕事へのやりがいも日本語からは失われ、英語の世界に奪われる方向に傾いてしまいました。「知性」が失われたのが先か、「言葉」への思いが失われたのが先か。

「知性」は「言葉」だけでは伝わらないかもしれない。でも、「知性」を守り得るのも「言葉」なのです。

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